

記事の内容は,ノルウェーの国立美術館は,22日,画家エドバルト・ムンク(1863~1944年)が代表作「叫び」の作品上に,自らが落書きをしていたとの分析結果を公表したという内容だった。すでに見つかっていた落書きの主や動機は謎で長年論争になってきたが,美術館は赤外線を駆使した解析により,本人の筆跡と一致したと判断した。


「叫び」は、登場人物の独特のゆがんだ表情などうぃ通じ,人間の不安を描いた作品として有名。1904年に展示された際,美術の評論家が落書きの存在に気付いた。ムンクが4点描いた「叫び」のうち,1893年の作品の左上には,「狂った人間しか描けなかった」という意味の言葉が鉛筆書きで記されている。作品を見て憤慨した人の行為との説もあるが,美術館はムンクの書簡の文字と筆跡を比べるなどしえ,本人のものと結論付けたそうだ。彼の皮肉とも読み取れるし,彼の弱さやもろさを表しているとも言える」と話している。
私も,ノルウェー国立美術館に行ったが,ノルウェーでは,入場料が無料で,大学生が沢山見学に来ていた。少し,ムンクの事について,言及すると・・・・。
ムンクは1863年12月12日,ノルウェーのヘードマルク県ロイテンに生まれた。父クリスティアン・ムンク(1817年 - 1889年)は医者であり,1843年から船医,1849年からは陸軍軍医を務めノルウェー各地の駐屯地を転々としていたが,1861年にラウラ・カトリーネ・ビョルスタ と出逢い間もなく結婚。2人の間にはエドヴァルドの前に長女ヨハンネ・ソフィーエ(1862年生)が生まれていた。エドヴァルドが生まれた直後の1864年早々,一家はクリスチャニア(現オスロ)に移り住んだ。ここで次男ペーテル・アンドレアース(1865年生),次女ラウラ・カトリーネ(1867年生)が生まれた。しかし,母ラウラ・カトリーネが結核に冒され,いったん持ちこたえて三女インゲル・マリーエ(1868年生)を産んだものの1868年12月29日に亡くなった。以後,母の妹カーレン・ビョルスタがムンク家の世話をすることになった。ムンクの父はもともと信心深い性格であったが,妻の死後は狂信的なほどキリスト教への信仰にのめり込み,子どもたちを叱る時は異常なほどに厳しかった。ムンクは父の狂信的な考えに反発して口論した日の夜,父の寝室を覗き,父がベッドの前にひざまずいて祈っているのを目撃して衝撃を受けたことを後に回想している。ムンクはその光景をすぐにスケッチに描くことによって,ようやく落ち着いて寝入ることができたという。ムンクは「病と狂気と死が,私の揺りかごを見守る暗黒の天使だった」と語っている。
ムンクの手記によれば1876年末頃,彼は血を吐き結核だと思い自分の死が近いことを覚悟した。さらに姉のヨハンネ・ソフィーエが結核に感染し,1877年11月15日に15歳で亡くなった。ムンクにとって姉は,きょうだいの中でも特別で,亡き母に代わって愛情を注いでくれる存在であったため衝撃は大きかった。こうして身近に「死」を実感したことが後のムンクの芸術に生涯影響を与え続け,特に『病室での死』(1893頃)『病める子』(1886)といったムンクの初期の諸作品では直接のモチーフになっている。

『叫び』はその遠近法を強調した構図,血のような空の色,フィヨルドの不気味な形,極度にデフォルメされた人物などが印象的な作品で,最もよく知られ,ムンクの代名詞となっている。
ムンクは,ノルウェー王立絵画学校へ行き,パリに留学もしている。そこで著名な画家からの影響を受けた。その後.精神病,結核にかかり,ベルリンに帰る。この頃,『生命のフリーズ』をテーマに絵を描いている。

ノルウェーの市庁舎には,今まで描いていた絵と違った画風の絵が飾られていた。


晩年は,オスロで暮らし,色々と勲章を授与された。眼が見えにくくなって絵を描くことを止めたそうだ。

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ムンクの絵、好きです
kawaii155cm 北欧、行ってみたい国です。
「このコロナ禍が収束したら、海外旅行に行くよ!」と家族に宣言しています。
ムンクの『叫び』は時にユーモラスなもののように取り上げられてお笑いのネタになったりしていることがありますが、ムンクの思いとは全く違うのですよね。
私は、絵はよくわかりませんが、ムンクの絵の光の描き方やどんよりと重く、暗い描写が好きです。
誰の中にも苦悩や恐れはあるもの。どん底の何もできない時間から少し経つと自分が今できることの中で一番好きな事をやっていたように思います。
ムンクは絵だったのでしょう。
私は・・・父や母が亡くなった後、パッチワークや刺し子をしていたように思います。無心に瞑想をしているような感覚を持ちました。
長い年月、沢山の絵を残してくれたムンクに感謝です。
海外旅行は、沢山知識を持っておかなければなりません。知識があるとないのとでは、旅の楽しみに大きな差が出てきますよね。
漠然としてではなく、行き先を決めて始めましょうかね。もう、若くないので、行ける国は限られるでしょう。
最近は歴史に興味が出て、高校時代苦手だった世界史の一端も面白いと思えるようになってきました。
やはり、最初の旅先は北欧ですかね。時間をかけて北欧の5か国をまわる・・・いいですねぇ~。
kawaii155cmさんへ
K.N
海外旅行は,日本と文化的に違っているので,別世界に眼が見開いたって感じです。今まで,TVや本などで読んでいた内容とは,大きく違っています。私も姉も世界史が好きでした。それで,歴史で学んだ国を目の当たりにして,すごく興味を感じました。ムンクは,家庭的に,色々と問題を抱えていました。それに,ナイーブな人だったのでしょう。病気や精神病や眼の病気などに罹り,母親や兄弟なども病気で失っています。身近で人の死を体験することで絵にもその兆候が表れているそうです。海外旅行には,事前に少し知識を得ておいた方がいいと思いますが,現地でしっかり観察することです。言葉は,最近,モバイルの翻訳機があるので,困らないと思います。旅行は,個人旅行よりも,ツアーで行った方が短期間に多くの事が学べます。私は,ヨーロッパ,アジアなど8回旅行し,20カ国位行きました。帰国後,blogを書いたのが,復習になって良かったです。在職中は,余り旅行できなかったのですが,リタイアしてから色々行きました。それに,
多くの写真を撮り,
絵に描いて楽しんでいます。kawaii155cmさんも,大いに異文化を探検して下さい。歳をとったら,国内旅行にシフトするのが良いです。北欧は,寒いので,夏に行くのが良いです。それに,盗難などにあう事が多いので,気を付けて下さい。体の元気なうちに,大いに楽しんでください。
思い出は 美しく楽しさ一ぱい!
yasumama いろんな所にお出かけしてらっしゃるから 思い出 一ぱいですね。
ここのところ コロナで 外国は 勿論 国内も制限されて こころ寂しい
心の底から 楽しい・破天荒に笑える・・・これは 一寸表現が変だけど そんな気持ちになります。
今一 世界史・あまり好きでは 無かった ので 地名を探すのに 手間取りました・・昔・・昔の話
みんなが 見つけた後も まだ よう 見つける事が 出来なくて
画家・作曲家・作家等などの方 お若い時は 認められない方も多くて お亡くなりになって・・・・
今日も まあまあ・・24式なんて 2年??まだまだ 前??❓?孫式をするように なって してない・・反対向いて お見合い させてもらいました。ありがとう
yasumamaさんへ
K.N
現在,新型コロナが世界中に流行していますね。国内のみならず,外国も危ないですよね。コロナワクチンがかなり開発されているとは言え,ワクチンの争奪戦状況ですね。日本ももう少し早く入荷されるのかと思っていたら,かなり当初より遅れるみたいですね。下手したら,今年中にワクチン接種が終わらないかも知れませんね。そうすると,東京オリンピックは,絶望的ですね。ワクチンは開発するのに,4・5年かかるそうですが,現状でいくら急いでも,かなり時間がかかることでしょう。良い時に海外旅行に行ったなと思います。一刻も早くコロナウィルスが収束して欲しいものです。
kawaii155cm 北欧、行ってみたい国です。
「このコロナ禍が収束したら、海外旅行に行くよ!」と家族に宣言しています。
ムンクの『叫び』は時にユーモラスなもののように取り上げられてお笑いのネタになったりしていることがありますが、ムンクの思いとは全く違うのですよね。
私は、絵はよくわかりませんが、ムンクの絵の光の描き方やどんよりと重く、暗い描写が好きです。
誰の中にも苦悩や恐れはあるもの。どん底の何もできない時間から少し経つと自分が今できることの中で一番好きな事をやっていたように思います。
ムンクは絵だったのでしょう。
私は・・・父や母が亡くなった後、パッチワークや刺し子をしていたように思います。無心に瞑想をしているような感覚を持ちました。
長い年月、沢山の絵を残してくれたムンクに感謝です。
海外旅行は、沢山知識を持っておかなければなりません。知識があるとないのとでは、旅の楽しみに大きな差が出てきますよね。
漠然としてではなく、行き先を決めて始めましょうかね。もう、若くないので、行ける国は限られるでしょう。
最近は歴史に興味が出て、高校時代苦手だった世界史の一端も面白いと思えるようになってきました。
やはり、最初の旅先は北欧ですかね。時間をかけて北欧の5か国をまわる・・・いいですねぇ~。
kawaii155cmさんへ
K.N




思い出は 美しく楽しさ一ぱい!
yasumama いろんな所にお出かけしてらっしゃるから 思い出 一ぱいですね。
ここのところ コロナで 外国は 勿論 国内も制限されて こころ寂しい

心の底から 楽しい・破天荒に笑える・・・これは 一寸表現が変だけど そんな気持ちになります。

今一 世界史・あまり好きでは 無かった ので 地名を探すのに 手間取りました・・昔・・昔の話
みんなが 見つけた後も まだ よう 見つける事が 出来なくて

画家・作曲家・作家等などの方 お若い時は 認められない方も多くて お亡くなりになって・・・・

今日も まあまあ・・24式なんて 2年??まだまだ 前??❓?孫式をするように なって してない・・反対向いて お見合い させてもらいました。ありがとう

yasumamaさんへ
K.N






そごう呉店のオープンの日。寂しかった呉駅前は,そごう呉店が出来て,すごく賑わいが出来た。買い物や食事に行ったり,贈り物を買いにったりして,呉駅の玄関にふさわしいデパートだった。


そごう呉店の屋上には,アドバルーンが上がり,1991年には,広島東洋カープリーグ優勝おめでとうセールなどもあった。1993年最盛期の売り上げは,212億円で広島への買い物客流出に歯止めをかけた。


開店後には,呉駅周辺にホテルや複合施設,大型ショッピングセンターなどが相次いで立ち,すごく賑やかになっていった。開店10周年,15周年,20周年の様子。しかし,7年前頃から売り上げが伸び悩み,ピーク時の4割に落ち込み,回復が見込めない事から,昨年6月に閉店発表があった。カウントダウンで閉店の日が近づいてきた。




1月末で閉店したが,後継施設に付いて,そごう・西武・呉市から具体的な方向性は出ていない。また,200人を超すパート従業員とテナント従業員が失職する,パート118人は雇い止めになり,再就職先が決まった従業員は約20人とか。それに,呉市は土地の大部分を所有し,年約1億円を受け取っていたので,それも入らなくなり,財政的にも大きな影響が出てくるそうだ。跡地に商業施設の誘致をめざしているが,人口減少が続いているので,誘致はなかなか難しいようだ。
昨年末位から,売りつくしセールが続いていたので,私も何度か買い物や食事に行った。23日からは50%オフの最終売りつくしセールだった。最後の北海道展も30日まであった。




最終日の1月31日(木)にも買い物に行ってみた。朝からすごい買い物客で,店員さんも沢山応援に来ていて,すごい賑わいだった。




午後7時が閉店なので,その時間までいて,見届けたいと思ったが遅くなるので帰宅した。TVのニュースで,店長の挨拶や閉店のセレモニーみたいなものがあった様子を報じていた。沢山の人たちが残って,その様子を写真を撮っていたようだ。




昨日2月1日の友だちのblogを見ると,入口のドアは固く閉じられており,店内では,店員さんが残品の片付けをしているようだったとか・・・。街も,どんどん発展していく時は,市民も元気が出るが,色んな施設が民間委託になり,学校も統廃合され,市営バスも広電バスになった今,何とか手立てはないものかと思う。これからの呉市の方向性は・・・?これといった企業が無いので,若い人はどんどん都会に出ていき,人口が減少し,高齢者化率がすごく高くなった街,そんな街作りを根底から考え直す必要がありそうだ。価値観の転換も大いに必要だ。


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通る度にため息がでる~~~わ。(--〆)
yasumama ほんに心が落ち込みます。この市の未来を案じてしまいます。そして この失職なさった方々が又他場所に流れられれば 少しずつ又 高齢化UP。
どう考えてみてもぽっかり穴があいた感じです~~~。今までは T市のF屋とか F市のどことかいろいろ新聞に出てましたが やぱりここにもやってきましたね。こんなに大切なものって 失ってみてから初めて感じました。
我が市も若い方達がげんきで働ける場所を沢山 作って頂いて 元気力 UPしてもらいたいです。自分達にも多少 責任ある???かな~~~。H市に出かけてりして・・・・。
yasumamaさんへ
K.N
わが街から,色んなものが無くなっていくのはすごく寂しいですね。それでなくても,働く場が少ないのに,これで追い打ちをかけられましたね。
駅の方へ行って,食事や買い物をする楽しみがなくなりました。それに,市民の発表の場であるイベントプラザもなくなって,私は時々見に行くのを楽しみにしていました。これからどうなるのでしょう。都会から地方に若い人がUターンして働ける場が欲しいですね。
都会と地方の格差がどんどん開いて来てますね。それに,この所,著名な方が沢山亡くなられるのを聞いて,喪失感を感じます。
人口の減少する国は栄えないと言われています。少子化対策もしっかりやって欲しいですね。
yasumama ほんに心が落ち込みます。この市の未来を案じてしまいます。そして この失職なさった方々が又他場所に流れられれば 少しずつ又 高齢化UP。



yasumamaさんへ
K.N








鯉のぼり,鎧兜,幟など和風モダンにコーディネイトされている。


こちらは,百均のものに手を加えてオブジェに仕立てられたそうで,素敵にディスプレイされている。そんなには身近なものには見えない。


それに和室が一部屋全部,ディスプレイされている。床の間には,掛け軸,男の子の四つ身の着物,兜の置物など。


戸棚にはポーセラーツの作品の食器,置物などが飾られていた。隣の部屋では,ポーセラーツの教室に来られた方の姿も見られた。


愈々お食事。最初はサラダとお茶,それからパスタ。お料理は某ホテルのシェフをされていたご主人の担当。


次は,メインデュッシュの肉料理。お皿は,私の方が「花」,彼女の方が「春」という文字がポーセラーツされていた。


それからアントルメと珈琲。珈琲はポーセラーツされたカップで好きなものを選んで頂いた。

美味しい料理に素敵なお皿で,ご夫婦のコラポレーションにはいつもながら,微笑ましく思っている。「花だらけ」からでて,ぶらぶら歩いて車を停めていた所まで知人を見送った。彼女に頂いた「桜餅」,大正時代創業の老舗の和菓子屋の新屋(あたらしや)のもので,3種類の桜餅が入っていて,桜の季節を感じさせる素敵な品で,早速仏壇にお供えをして頂いた。

桜もそろそろ終わりかな。いやいや,今度は八重桜だ。

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可愛い器ばっかりですね。
yasumama すっかり端午の節句バージョンですね。 いろんな飾り方があるものですね~。
子供の産着お宮参り以来つかっていませんがこんな風に使ってデスプレイすれば 着物もよろこんでくれてるとおもいます。
お宅の五月人形はいかがでしたか。 元気に出番を待っていた事でしょう。
「花だらけ」 おいしそうですね。雰囲気満点です。お皿の“春”と花”の文字が何とも言えない雰囲気をかもしだしてます~~。ああ、絵文字がつかえなくって 残念、気持ちを絵文字で表したいな~。突風がふいてたいへんですね。それに寒いです。
私も御馳走になりました。
sa-sa
思い出しました。その季節に合わせていらしたかたを楽しませようと、またご自分も楽しみながら趣向を凝らしておられる様子がよく分かります。この前のフラワーロードさんのロードも見事でしたね。
先日銀座へ行ったという友人より聞いた話ですが、街が全体的にくらーい感じで以前なら賑わってた店にも人がいなく人通りも少なくてびっくりしたと言ってました。節電の影響もあるのかもしれないし自粛ムードもあるかもしれないし、原発事故が収束の見通しが立たないということもあるかもしれない(これが一番かな)。
被災地に原発事故、何とか早く良い方向に向かって欲しいと祈り願うばかりです。全部が沈まないように元気なところが増えていってくれー!という心境です。
食事に行ったのは久し振りでした。
K.N
いつもの事ながら,「花だらけ」さんのディスプレイには感心しています。家に眠っているようなものも,上手に使って素敵にアレンジされています。私も宮参りの着物なども,箪笥に仕舞って防虫剤を入れ替えているだけです。箪笥の中で朽ち果てるより,活用した方が良いですね。5月人形まだ出してません。1人では出せないので,息子が帰ったらと思いましたが,昨日は第2音戸大橋の見学,今日から九州旅行なので,帰ってきたら一緒に出す予定です。お皿もお料理もすごく良かったです。絵文字はどうして使えないのかしら??ごめんなさいね。今度,またみんなで食べに行きましょう。
以前一緒に行きましたね。
K.N
お盆に帰省した折に一緒に行きましたね。夏だったから,金魚かなんかのディスプレイだったかしら??お皿が綺麗にポーセラーツされてましたね。フラワーロードさんは,今年もフラワーロードの芝桜が見事でした。
桜も沢山咲いていて綺麗でした。八重桜はの花は例年塩と梅酢に漬けられてます。木彫木目込人形の制作は勿論,あれこれと忙しくされてます。原発の方なかなか出口が見えませんね。余震もかなりあって,長い長いトンネルを通っているような毎日ですね。余り自粛するのも良くないので,私は今まで通りにしてます。早く,明るい展望が見えてくると良いですね。
音戸に第2大橋が建造中です。
yasumama すっかり端午の節句バージョンですね。 いろんな飾り方があるものですね~。
子供の産着お宮参り以来つかっていませんがこんな風に使ってデスプレイすれば 着物もよろこんでくれてるとおもいます。
お宅の五月人形はいかがでしたか。 元気に出番を待っていた事でしょう。
「花だらけ」 おいしそうですね。雰囲気満点です。お皿の“春”と花”の文字が何とも言えない雰囲気をかもしだしてます~~。ああ、絵文字がつかえなくって 残念、気持ちを絵文字で表したいな~。突風がふいてたいへんですね。それに寒いです。
私も御馳走になりました。
sa-sa

先日銀座へ行ったという友人より聞いた話ですが、街が全体的にくらーい感じで以前なら賑わってた店にも人がいなく人通りも少なくてびっくりしたと言ってました。節電の影響もあるのかもしれないし自粛ムードもあるかもしれないし、原発事故が収束の見通しが立たないということもあるかもしれない(これが一番かな)。
被災地に原発事故、何とか早く良い方向に向かって欲しいと祈り願うばかりです。全部が沈まないように元気なところが増えていってくれー!という心境です。
食事に行ったのは久し振りでした。
K.N


以前一緒に行きましたね。
K.N








1941年に結婚した母の嫁入りの家具だから70年を超えている。母の両親が戦時中の物資が不足していた時に精一杯の気持ちで揃えてくれたという事で母はすごく大切にしていた。

でも,長い年月であるものは,取手が壊れていたり,桐の部分が汚れていたりしていた。扉が開きにくくなっているものもあった。勿論,全体的な木の艶は精彩を欠いている。生前,母が口にしていたそれらに対する思いを思い出し,今回補修することにした。K家具店では,静岡や四国などの専門業者に送って補修して貰うと言われていた。費用の見積りは115,000円かかると言われた。莫大な金額だと出来ないが,それ位ならと決心した。今年に入り,1月8日にK家具店から自宅に家具が戻ってきた。




補修前と比べると,すごく綺麗になっている。どんなに補修がされたのか見てないので分からないが,金具の取り付け,塗装,内部の壁面の張替などされて,扉も開けやすく,見た目も垢ぬけした感じになっている。来月の母の3回忌の時に,母の妹,私の兄姉たちに見て貰おう。みんなも想いで深い家具だから・・・。
母の遺品を色々整理していたら,家具類でも,針箱,姫鏡台,飾り火鉢,小物入れなど,さらに花嫁の衣装・髪飾りなど色々あった。新婚当初の日記みたいなのも出てきて,すごく懐かしく思い出された。


家具屋さんによると,最近は,ライフスタイルが大きく変化して,嫁入り道具など決まったものを揃えない人が多くなっている。マンションなどでは造りつけのクローゼットなどがあり家具が不要だそうだ。ましてや,レトロな家具など,買う人はきわめて少ない。それで高い技術を持った家具職人さんも後継者が殆どいなくなってしまったそうだ。だから,このようなレトロな家具を補修するのにも限界があるそうだ。私たちがいなくなったら,誰かがこれらを処分する事になるだろう。そうしてみると,淋しいものだね。

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懐かしい気持ち 味わわせていただきます。
yasumama 親孝行なNさん,母上様もさぞかし嬉しい事でしょう。 私も田舎に居た時は 倉の中にいろんなもに、髪飾りなどもありました。タンスとか鏡台とか これはどうとかと母が 話してくれた思いでがあります。
文机なんて もう どうなってしまったやら・・・廃屋の中で 悲しく・・・ああ、 泣けてきますね。((;一_一))
お針箱、そう言えば ここの母のが しまってあり、私のもありますが 古ぼけて もう 処分寸前・・・。タンスなんて 壊して仕舞いました。倉の中には 宝物のように いろんなものが しまってあり 怖いやら面白いやらと・・・でも、 倉の中って 怖い思い出です。こうして母上様のものを キチンと整備されれば 立派ですね。 今のものにはないような 重厚さがうかがわれます。 衣桁も懐かしい、私のはどこにいったのか記憶がありません。 まあ、 久々 味わえない気持ち・・・嬉しいです。今日は帯が出て絵文字つかえません。 字ばっかりで すみません。
捨てがたいものが沢山あります。
K.N
色々整理してみると,簡単には捨てがたいものが沢山あります。昔は,嫁入り道具として電気製品はなかったですが,箪笥一式,和服,布団,小物にいたるものまで,揃えていたのですね。最近は,嫁入り箪笥など買わない人が多いようですね。昔は父や母も家では和服でしたが,今は洋服ですね。
すごくライフスタイルが変わったのですね。yasumamaさんのお母様も色々持っておられたのですね。それを後の世代の人が持ち続けるというのはなかなか難しいですね。外国では,家具も修理しながら長く使い,ウェーディングドレスなどもお祖母さんの時のを大切にしまっていて使うとか言ってますね。昔はすごく優雅で綺麗だったと思いますが,何しろ長い年月が経ち,修理する職人さんの技術も継承されない昨今では以前のような修復は難しいですね。
来月を楽しみにしています。
sa-sa まぁー!修理に出されたんですね。帰る度に目にしてたお馴染みの家具ですが、よみがえった感じですね。そうちょっと開けにくくなっていたり外れそうになっていたりして、触るのがおっかなびっくりでしたが、それがなおったんですね。
一昔前の物は丁寧に作られていて味わいがあり、見てるだけでも落ち着くように思います。今このような物を手にするのは大変なことで、職人さんがいなくなっているのは寂しい限りです。
2月の3回忌が楽しみです。
修理するにも限界がありました。
K.N
家具屋さんに補修をお願いした時,昔のような綺麗な家具に復元するのかと思ってましたが,何しろ,70年前の家具で,当初の職人さんや補修の為の材料もなかなか手に入らないでしょうから無理な面もあると思いました。房になっていた所などは金具になっていました。房にすると耐久性がないからでしょうね。でも,茶棚などはかなり良くなりました。一部屋をアンティークな家具の部屋にしたら良いですよと家具屋さんが言ってました。3回忌の時に会えるのを楽しみにしています。見て下さい。
yasumama 親孝行なNさん,母上様もさぞかし嬉しい事でしょう。 私も田舎に居た時は 倉の中にいろんなもに、髪飾りなどもありました。タンスとか鏡台とか これはどうとかと母が 話してくれた思いでがあります。
文机なんて もう どうなってしまったやら・・・廃屋の中で 悲しく・・・ああ、 泣けてきますね。((;一_一))
お針箱、そう言えば ここの母のが しまってあり、私のもありますが 古ぼけて もう 処分寸前・・・。タンスなんて 壊して仕舞いました。倉の中には 宝物のように いろんなものが しまってあり 怖いやら面白いやらと・・・でも、 倉の中って 怖い思い出です。こうして母上様のものを キチンと整備されれば 立派ですね。 今のものにはないような 重厚さがうかがわれます。 衣桁も懐かしい、私のはどこにいったのか記憶がありません。 まあ、 久々 味わえない気持ち・・・嬉しいです。今日は帯が出て絵文字つかえません。 字ばっかりで すみません。
捨てがたいものが沢山あります。
K.N




来月を楽しみにしています。
sa-sa まぁー!修理に出されたんですね。帰る度に目にしてたお馴染みの家具ですが、よみがえった感じですね。そうちょっと開けにくくなっていたり外れそうになっていたりして、触るのがおっかなびっくりでしたが、それがなおったんですね。
一昔前の物は丁寧に作られていて味わいがあり、見てるだけでも落ち着くように思います。今このような物を手にするのは大変なことで、職人さんがいなくなっているのは寂しい限りです。
2月の3回忌が楽しみです。
修理するにも限界がありました。
K.N


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