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時は,過去,現在,未来へとずーと繋がっている。時の変化は,何気なく過ぎ去っていく。時は確実に流れている!
8月14日(水)尾道の早朝。この日は,愈々,呉に帰り着く日なので,いつもより早く起きて尾道をスタート。尾道から,海岸沿いの「さざなみ海道」を西に向かって走った。こちらは馴染みのある道路なので,すいすいと走れた。
01.尾道駅前(朝)1 
尾道~呉は,距離にして,82km。気温も今まで通りの猛暑という予報。台風10号が中国地方に近づいているので,天気は段々崩れると思う。
さざなみ海道
道中,走ることに集中して,写真は余り撮らなかった。呉市に入って,国道沿いの「とびしまCafe」で少し休憩した。
06.とびしまCafe.1JPG 03.とびしまCafe1
呉市は,レモンの栽培が盛んなので,とびしまレモンのスムージーを飲んだ。
05.とびしまCafe(とびしまレモンのスムージー)1
12時過ぎに,呉駅に到着というLINEが入った。予想以上に速い走りだったようだ。すぐに,家に帰ると思って,孫と一緒に,GOALの横断幕を作って,家の近くで待ったが,なかなか到着しなかった.。
14.ゴール 

10.ゴール2
呉駅の近くの大和ミュージアムや鉄のくじら館などを回っていたとのこと。
07.呉駅1 08.呉駅2
愈々,こちらに到着!
11.ゴール1

09.ゴール1

13.ゴール2
汗びっしょりで,GOAL! 暑くて,しんどかったのではと思ったが,意外や,楽しくて,爽やかな汗だったようだ。
シャワーを浴びて,斎戒沐浴して,しばらく休憩した。
夕食は,スタミナ回復のため,ステーキにした。嫁さんと一緒に夕食の準備をして,ビール・チューハイで,3日間250kmのサイクリングの旅を無事終えられたことを喜んだ。
夕食
孫たちも,パパと会えて,すごくテンションが上がった1日だった。
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【2019/08/23 19:16】 | お盆
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8月13日(火)次男は,今治のホテルから,しまなみ海道を渡って,自転車で尾道に向けて出発。
03.サイクリングロードマップ
今治から尾道の距離は104.78km,気温は,36℃~44℃。まずは,今治北ICから来島海峡に架かっている来島大橋を渡る。 
手前にレンタルサイクルのターミナルのサンライズ糸山がある。
04.サンライズ糸山 06.サイクリングロード
来島海峡大橋からの眺望は素晴らしい。
07.来島海峡大橋 09.来島海峡大橋からの眺望
亀老山(きろうさん)は,今治から大島を見て正面に見え,標高307.8mで東京タワー(333m)よりも少し低く,来島海峡大橋(184m)の1.7倍の高さ。亀老山山頂から望む来島海峡は,日本の「展望スポット2017」2位で,四国八十八景に選定。大島の南端に位置する亀老山の頂上にある展望公園の眺望はしまなみ海道随一と言われ,天気が良ければ西日本最高峰の石鎚山まで見渡すことができるそうだ。藻塩ジェラードを食べる。
11.亀老山 13.亀老山(藻塩ジェラート)
亀老山展望台のマンホール。実物大位の石の彫刻の亀がいる。
14.亀老山(展望台のマンホール) 18.亀老山
次は,大三島大橋。大三島は,しまなみ海道の中でも一際見所が多いスポット。道の駅「伯方SCパーク」で,珍しい伯方の塩ソフトを食べる。
19.大三島大橋 20.道の駅伯方SCパーク(伯方の塩ソフト)
多々羅大橋を渡る。橋の上が愛媛県と広島県の境界線が引かれたいる。
22.多々羅大橋 34.多々羅大橋(県境)
多々羅しまなみ公園には,サイクリスの聖地である『サイクリス記念碑』あった。
27.道の駅多々羅しまなみ公園(サイクリスト記念碑) 28.道の駅多々羅しまなみ公園(サイクリスト記念碑)
すごく暑かったので,道の駅「多々羅しまなみ公園」で島いちごソーダ)を飲む。
29.道の駅多々羅しまなみ公園(島いちごソーダ)
次は,大三島の中の大山祇神社へ行った。山の神・海の神・戦いの神として古くから武将や朝廷から多くの尊崇を集めた神社。源平時代の有名武将や戦国時代の著名な武将,更には現代の自衛隊に至るまで、奉納や参拝がある神社。
30.大山祇神社 31.大山祇神社
日本総鎮守と呼ばれ,全国に一万社あまりの分社を持つ神社。拝殿と本殿は国の重要文化財に指定され,宝物館や海事博物館も併設されている。境内中央には樹齢約2,600年の神木である大楠が鎮座し,神社内の楠群は日本最古の原始林社叢の楠群として天然記念物に指定されている。
33.大山祇神社
多々羅大橋を渡って,生口島に入る。「瀬戸田サンセットビーチ」に行き,ドルチェ(ジェラード)を食べる。ドルチェの大きな看板が立っていた。
35.瀬戸田サンセットビーチ 37.ドルチェ(ジェラート)
因島大橋を渡り,因島に入り,自転車のお祓いなどをしてくれる「自転車の神様」の「大山神社」に行く。因島大橋の夕景色はこんなに綺麗!
39.大山神社 40.因島大橋(夕方)
因島大橋を渡り,向島に入った。尾道駅へは,橋を通らず,渡船に乗るようになっていたとか・・・。やっと,尾道駅に到着!高い所に,千光寺が見える。尾道駅も建て替えられて綺麗になっていた。
41.渡船(因島-尾道駅) 42.尾道駅到着
早速,尾道ラーメンを食べる。
43.尾道ラーメン
今夜は,尾道で宿泊。明日は,愈々,呉市へ。 残り,1/3行程,頑張ろう!
そうそう,嫁さんと孫娘2名は,昼頃,観音寺から松山へ行き,フェリーに乗って,我が家に来ていた。次男は明日14日に自転車でこちらに来ることになっているので,嫁さんと孫娘2人は,新しく完成した「日鉄日新製鋼アクアパーク」屋内プール」(呉市営プール)へ泳ぎに行った。私は,まだ1度もこのプールに行ってないが,新聞などに載っていたので,水着の用意をしてくるように言っていた。
日新製鋼屋内プール1 子どもプール
夕食は,オムレツ・サラダ・パンプキンスープなどを食べた。明日は,次男が無事に250㎞を走破して,元気な顔を見せてくれることを願っている。

【2019/08/20 21:40】 | お盆
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yasumama
104.78km,気温は,36℃~44℃v-356
この厳しい環境によくぞ挑戦 なさいました。
流石 K・Nさんの ご子息・お若い方は今 体を鍛錬なさるのですね~。
そてまでの準備 体つくり 体調 なかなかのものですね~。
テレビで見てる時は いいな~~って 簡単に思ってましたが 大丈夫って 解ってても ご心配なさったでしよう。
処々の食べ物 ジュース等なども楽しみの1つでしょうか。
田中陽気さん?(字が??)なんて 見てる方がハラハラ致します。
市民プール 行かれましたか。広々として気持ちがよいでしょう。
なかなか 行けません。プール友は沢山経験したって言うけど ちょっと 遠いからとかなんとか 言って実現しません。
こうして お話しを聞けば 遥か昔 気力体力あった頃が思い出しますね~。v-410
今日もちょこっと出かけただけなのに お疲れ~ゲンナリの私 とは これ如何にでしょ・・情けないなv-393

yasumamaさんへ
K.N
v-356私も,直前まで知らなかったのですが,こんな猛暑に,かなりの距離を自転車に乗るなんて,熱中症になったら,どうするのって思いました。サイクリングツアーもありますが,観音寺~呉まで250kmを単独走破でした。子供の頃から,スポーツが得意で,大人になってからも,ハーフマラソンなどにも出ていたそうです。v-281田中陽希さんは,朝のBSで「三百名山」に挑戦されていますね。私は,考えただけでも,疲れます。
「日鉄日新製鋼アクアパーク」は,嫁さんと孫が行き,私は車で送迎しました。金槌の私は,到底無理ですから。v-447

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今年のお盆は,3家族がそれぞれ日にちを置いて,墓掃除&墓参のため帰省した。7月17日(水)~19日(金)は姉と甥,8月3日(土)~5日(月)は兄夫婦,8月13日(火)~17日(土)は次男夫婦と孫だった。今回は,次男夫婦の帰省をblogに投稿する。8月12日(月)次男は,最近,自転車に嵌まっているそうで,あらかじめ嫁さんの四国の観音寺の実家に自転車を送っていた。観音寺駅から,嫁さんと娘たちに見送られて自転車に乗って,初日は今治へ向かって出発した。
01.田中家前1 02.田中家前1
★観音寺~今治の距離は,91.93km,気温は,38℃~45℃。猛烈な汗が出て,熱中症の危険性もあるので,水分や冷たいものを補給しながら走行。
13.走行ルート
途中,香川観音寺市の豊浜の道の駅に立ち寄る。
03.観音寺駅 07.道の駅とよはま
今治市では,湯の浦温泉・道の駅でレモンソフトを食べた。波静かな瀬戸内海に面し,日本の渚・百選に選ばれ,白砂,青松の海岸線と緑豊かな丘陵地が続いているそうだ。道の駅には,物産コーナーやレストラン, レンタサイクルなどを備えた,しまなみ海道の入口。 
08.道の駅今治湯の浦温泉(レモンソフト) 10.道の駅今治湯の浦温泉
次男は,サイクリングの様子を度々,嫁さんのスマホのLINEに送ってきていた。初日の今治ではホテルに宿泊。
11.今治駅 01.今治アーバンホテル出発
疲れていたので,入浴して,明日に備えて,早々に就寝自分の自転車は,部屋の中へ持ち込み出来たそうだ。

【2019/08/17 16:32】 | お盆
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yasumama
まあまあ ご次男様だけで・・・。
最初 下のお嬢ちゃん そんなに大きくなられたのかって ビックリ 致しました。
その内に そう言う事も あるでしょうね。
若い人は ビックリさせられます。
孫娘も孫息子も 少し前 そう言った話をしてくれていて 大丈夫だろうかって そんな心配をしましたが やるのですね~~。
してはいないけど 55才(自分) 60才(夫)チョコット サイクリングで橋を渡ったりしたいって 話した事はありましたが 当然ながら できる筈もなかったです。あの景色 味わえば そんな気持ちになってしまいますね~。
あの頃は 大?元気で?やるっき満々の時でもありましたけど・・・今は・・・・沈没寸前v-12
ご次男様の脚力満点の筋肉・・鍛えてらっしゃるのが わかりますね。v-91
普通でさえ 汗 ボトボトなのに 挑戦するって事は 楽しいでしすね~。v-425
 

yasumamaさんへ
K.N
v-405自転車で帰省するなんて,直前まで知りませんでした。事前に,専用の宅急便で自転車を観音寺まで送っていて,スタートしたとのこと。会社でも,サイクリングが流行っていて,自転車にユニホーム・装備など揃えているとのことでした。若い人は,冒険が出来るから良いですよね。年齢を重ねると,臆病になって・・・暑くて,大変だろうと思いましたが,すごく楽しかったそうです。次男は,スポーツマンで,体を動かすのが好きなようです。母親の私は,億劫な方ですが・・・。2日間かけて,汗だくで,v-356すごく日焼けして,走破しました。しまなみ海道,尾道~呉は,次回投稿します。

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8月10日(土)朝刊に,こんな記事が載っていた。あれは何年前になるだろうか。よく覚えていないが30年位になるかも・・・。元同じ勤務校の大先輩の先生の教え子に,学徒動員で大久野島の毒ガス爆弾製造作業所に行っていた女学校2年生がいた。その生徒は,戦後,中・高校の美術の教諭をしていて,学徒動員の当時の出来事を次代に伝えねばと思い,講演に行かれたり,画集にして色んな所で配布されたりしているとのことだった。私が勤務していた学校は,平和教育に熱心に取り組んでおり,毎年,夏休みに『平和登校日』を設けていた。平和登校日に,岡田黎子さんに講演していただき,その時,「毒ガスの島・大久野島の画集」を頂いたことを思い出した。(※ 画像をクリックすると大きく見えます)
新聞記事岡田藜子
岡田黎子さんは,1929年生まれ。京都市立美術大を卒業後,中・高校の美術教諭を務められた。大久野島の学徒動員に加え,被爆直後の広島にも動員され,広島郊外で2週間にわたって瀕死の負傷者の救護にあたられ,人の世とは思えぬ惨状を見られ,次々に亡くなる負傷者に声も出ないような思いを体験されたそうだ。1985年病気退職後,日本画を制作をしながら,戦後は,得意な絵の道を選び,戦争体験の証言活動などに励んでこられたそうだ。
2009年に岡田黎子さんは画集『子どもたちの太平洋戦争』を制作され,被爆者救護にあたった体験や戦後の毒ガス処理の様子など,優しいタッチで加害も被害も入り混じる戦争の姿を描かれている。
絵で語る子どもたちの太平洋戦争
風船爆弾を作る作業に携わっていた様子。
風船爆弾 爆弾造り1
毒ガス製造・運搬などの様子。
爆弾造り2 毒ガス被害
戦争中の竹槍訓練の様子。
竹槍訓練
画集は4冊あり,毒ガスの濃縮原料を保管庫から取り出す様子など作業風が載っている。89年に第1作,2010年に第4作を出された。私が,かって岡田黎子さんから頂いた本は,初版でモノクロで小ぶりな冊子だった。家においていると思い,色々探したが見つからなかった。もう一度,しっかり探してみよう。
1988年に大久野島に開館した毒ガス資料館で初代館長の故村上初一さんは,平和学習に訪れた児童や生徒や修学旅行生たちに体験を語っておられた。私も,その後,何度か大久野島と毒ガス資料館を訪れた。1996年春に村上さんが館長を辞任されてからは組織的な証言活動は事実上途絶えているそうだ。現在は依頼があれば,毒ガス障害者の団体や市民グループが証言したり,大久野島のガイドを引き受けているそうだ。
大久野島毒ガス記念館
1927年には,島全体が陸軍の毒ガス製造を目的として,陸軍の管理下となった。毒ガス兵器という国際的に禁止された兵器を作っていたので,戦争中,この島は地図から消されていた。当時の地図を見たら,本当に消えていた。
大久野島地図
毒ガス工場には,地元の農民や漁民,勤労動員学生ら6500人が一定の養成期間を経て従事していた。毒ガス工場へは希望入所ではなく,国家総動員法の徴用令状により,殆どが16-17歳という未成年で,強制的に大久野島行かされた徴用者だった。
元従事者たちは,戦争中,憲兵から島で見聞きしたことを外部に話すことを禁じられていた。戦後は,毒ガス工場で働いた事実が明るみに出て,自身や子どもらが差別されることを恐れたそうだ。心はずっと毒ガスの事で縛られていた。
<勤労奉仕していた元女学生>は,
大久野島で何を製造しているか知らされていなかった。黒く焼けた鉄の色をした顔,目の縁が黒くなった顔,ガラガラ声の工員さんの姿を見て,何とも言えぬ不安を感じ,何か良くないものが製造されていると思っていたそうだ。
<元徴用工>は,
帽子に浸透したルイサイト(毒ガス)が,ほんの少しだけ頭に触れた。2時間後,頭痛が始まり,3日3晩にわたり七転八倒したそうだ。かなづちで頭を殴られ続けているような痛みだった。激しい痛みに襲われ,初めて自分たちが作っている毒ガスの恐ろしさを知ったという。
<元中学動員学徒>は,
顔は黒く,目は赤く,肺はただれ,集会の折,駆け足で来る第2工場(イペリット)の人達は咳が止まらず,血を吐いていたそうだ。退職を願った人には,憲兵がやってきて,責め立て,殴打するので,毎日,泣き泣き自転車を工場に走らせていた。

戦争が終わって不要となった毒ガスや化学兵器は,大久野島の島内の地中に埋め込んで処分されたり,上記の毒ガス貯蔵庫などで火炎放射器を使って焼却されたり,周辺海域への海洋投棄といった方法で処理され,除毒措置が施された。

近年,小学校で飼っていたうさぎを大久野島へ移住させた結果,すごく繁殖し,多数のウサギが棲息することでも知られることとなり,「ウサギの島」と呼ばれている。現在は年間約10万人の観光客が訪れる「ウサギの楽園」として知られ,一部のウサギ好きの聖地ともなっている。特に,外国人の観光客が沢山来ているそうだ。孫たちも,5年位前に,うさぎと遊び餌をあげるために大久野島へ行ったことがある。
うさぎ
「戦争で受けた苦しみを知っているからこそ加害の歴史も直視しなくては・・・。それが過ちを繰り返さない大きな力となる」と,岡田黎子さんは,生涯をかけて訴え続けておられる。

【2019/08/11 17:48】 | 平和
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yasumama
元徴用工・そして元中学動員学徒・・・そして 勤労奉仕をなさっていた人達 国民 皆が・・・退職を願った人に対する 仕打ち 読ませていただくだけで 身のけもよだつ 怖さをおもいます。

毒ガスの島とは 知ってましたが 兎が生息して可愛い動物って 事で 何度か訪れましたが・・・
このように しっかり 教わると・・・・。
実験動物として 兎が持ち込まれたって・・・
それに作戦中止後に安楽死をさせられてって 人間の身勝手さに・・・と 思わずにはいられませんね。

現在の兎くん達は引きずっては いないのですねぇv-12
8月15日 もう すぐですが もう少しだけ 早く終結してればって 思わずにはいられません。
玉音放送のドラマ みましたけど 自分の命と引き換えにしても 守りたいものです。
硫黄島への手紙・・・二宮君フアンでも 最後まで 直視できないのです。
もう 何度 放送があった事か・・・むごい事です。v-393 

yasumamaさんへ
K.N
v-388この時代,日本中が戦争の真っ只中で,反対するものは,ひどい目に合わされたそうです。私は戦後生まれなので,体験していませんが,親や周りの人や本などから,そうだったのか知るのみです。この戦争で,いかに多くの人がかけがえのない命を失った事か・・・。私の大先輩の日本画を描かれていた先生は,新卒の頃,生徒を引率して酷い場所に学徒動員の生徒を連れて行かされたことを,何度か話されていました。戦後74年,今の平和がずーと続くことを切望しています。毒ガスの検証に使われたのは,小鳥です。このうさぎは,戦後かなり立って,小学校で飼われなくなった何匹かをこの島に放し飼いにしたものが増えたものです。私が,毒ガス資料館などへ行った頃は,うさぎはそんなに沢山いませんでした。硫黄島へは,私の同僚だった先生の夫の父親がその地で戦死されたという事で,硫黄島に遺骨収集に行ける機会があって,行かれました。普通は,行けない島ですが,東京での報告会にも参加されたそうです。新聞の投稿欄に載っていたので,分かりました。身近にも,戦争と色々関わりのあるものですね。平和は,1人ひとりが強い意志を持って,色んな事にあたるべきだと痛感しました。明日は,終戦記念日ですね。v-354


sa-sa
このブログを読んでどう表現してよいのか。大久野島にガス工場があったことは知っていましたが、その実態は知りませんでしたから。6500人もの人々が動員されたということ、どういう人たち動員されたのか、どういう環境の下で従事させられていたのか、yasumamaさんの言われているように、身の毛もよだつ感じです。ここに従事させられていた人々の証言を知ることが、先の大戦がどういうものだったのか、凝縮されているように思います。国家総動員法の名の下、容赦なく従事させられていたわけで、国家総動員とはこういうことかと実感できました。容赦なく従事させられたのに、戦争が終わると差別されるという不条理。89歳になられた岡田黎子さんが生涯をかけて訴え続けておられる言葉は、一人一人がかみしめなくてはならない言葉だと思います。

sa-saさんへ
K.N
v-42「戦争」程,むごたらしいものはありませんね。最大の人権侵害です。第2次世界大戦により,多くの戦闘員だけでなく,民間人や子どもたちまでも,尊い『いのち』を奪われました。先日,v-55TVで「2.26事件」のドキュメンタリーを見ました。文民統制なのに,この事件を契機に,軍部が暴走を始めたとのこと。「玉音放送」の再現のドキュメンタリーも見ました。どこまでが真実か分からない点もありますが,国家権力が国民の生殺与奪を握っていることは確かです。それだけに,私たちは,選挙で選んだ政治家たちが,みんなの命や幸せのために働いているか,しっかり見ていかなくてはいけないなと思いました。戦争へと転がり始めたら,なかなかストップできませんから。v-404

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8月6日(火),午前中,台風8号の影響で天気が良くなかったが,原爆記念式典は例年通り行われた。タイトル
広島市は午前8時から平和記念公園で『原爆死没者慰霊式・平和祈念式典(平和記念式典)』が行われた。核兵器を巡る国際情勢が厳しさを増す中,犠牲者を悼み,記憶の継承と核兵器のない世界の実現を誓った。令和最初となる式典には,安倍晋三首相をはじめ,核兵器を保有の6カ国を含む海外92カ国と欧州連合(EU)の代表,都道府県の遺族代表36名が出席。松井一実市長と遺族代表2人が,この1年に死亡が確認され,新たに,5068人の名前を記した原爆死没者名簿を原爆慰霊碑に納めた。名簿は,117冊,計31万9186人になった。
原爆投下の時刻の午前8時15分には,遺族代表面明子さん,こどもの代表の正門和虎君が「平和の鐘」を突き,全員が黙とうをした。
平和の鐘
松井市長は,「平和宣言」で,冷戦後の核軍縮の詩ちゅうとなった米国とロシアの中距離核戦力(INF)廃棄条約が2日に失効したことなどを念頭に,緊縮する世界情勢の中,「核兵器廃絶のへの動きが停滞している」と指摘。政治指導者に対し,市民社会がめざす理想に向けて前進するよう訴える。核兵器禁止条約に背を向ける日本政府には,「被爆者の思い」として署名・批准を求める。「平和への誓い」は,金田秋佳さん,石橋忠大君が発表。
松井市長平和宣言 子ども代表平和宣言
厚生労働省によると,被爆者健康手帳を持つ被爆者は3月末時点で,14万5844人となり,初めて15万人を下回った。平均年齢は,82.65歳。
慰霊碑と平和の灯 安らかに眠って下さい
原爆ドームと慰霊碑は一直線に並んでいる。沢山の人が,原爆記念式典に来ているようだった。
平和公園 記念式典会場
原爆記念式典の開催日時 
 8月6日(火) 午前8時~8時50分
  ※ 毎年,開催日時の変更はなし。
  ※ 献水(式典に先立ち,7時55分~原爆犠牲者に対する献水)
式次第 
 1開式           
 2原爆死没者名簿奉納  
 3式辞          
 4献花          
 5黙とう・平和の鐘    
 6平和宣言       
 7放鳩         
 鳩
 8平和への誓い     
 9挨拶          
 10ひろしま平和の歌(合唱) 広島市を世界平和の原点にしようという願いを込めて1947年 8月に開催された「平和祭」に向け,主催団体の広島平和祭協会(会長 広島市長 濱井信三(当時))が歌詞を一般公募し,選ばれた重園贇雄氏の作品に山本秀氏が曲をつけて完成した。同年8月6日,厳粛な雰囲気の中で歌われた。
平和の歌合唱 平和の歌
 11閉式      
上記のプログラムで,広島原爆記念式典が行われた。原爆の塔の所では,沢山の折り鶴が納められた。
折り鶴
8月6日の夜,灯籠流しがあり,死没者の冥福を祈っている人たちの姿が見られた。
灯籠流し1
最近,新聞やTVのニュースを見ると,色んな国が核兵器を開発していることを報じている。核兵器の抑止力という事も聞くが,核兵器を持っていることで,核兵器を使用することもある。国際間の紛争も,武力ではなく,話し合いで円満に解決したいものだ。それにしても,最近は,色んな紛争があちこちで起きていて,非常に危険な国際情勢だ。
過去の歴史から学び,2度と同じ過ちを侵さないようにしたいものだ。

【2019/08/06 21:16】 | 平和
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yasumama
私もこの事について発信したいと 思いを巡らせていました。
ああしよう こうしましょうって 思ってるうちにドンドン 日が経ってしまいます。
「平和の誓い」には 胸を うたれました。
こうして 若い人達が 声を大にして 訴えてくださる事は ほんとに 良い事だって しみじみ 感じました。
沢山の参拝者…皆さん 心に思う事 一杯 おありだって いろいろ 思いました。
戦争の時 生を受けてたのに なんにも知らない年代の自分です。
絶対 申請はしないって言われる方も多々ありますね~。
いろいろ言いたい事 沢山 あれど・・・か・け・な・い・ですわ~~。v-393



sa-sa
毎年帰省しても、平和公園に足を運ぶ事ができないでいましたが、今年はお陰様でこちらへの帰りがけに立ち寄ることができました。平和祈念式典の前日ということもあって、沢山の外国人や折り鶴を持った学生たちの姿を見かけました。明日の式典に向けてリハーサルが行われていた傍で、慰霊碑に参拝し平和を祈念しました。ちょっと前までは、オバマ大統領が訪れて少しは良い方向に向かうかと思ったのに、現在の何という変わり様ですかね~。そんな中で、やはり広島市長や長崎市長が平和宣言で述べられているように、唯一の被爆国日本の役割は大事と思います。でも戦後74年経って戦争を知らない世代が増えると、こんなになるんですねv-236「原爆資料館」の放映見ました。多くの方に「原爆資料館」に足を運んで貰って、原爆の恐ろしさを肌で感じてもらうことが、言うまでもなく一番大切と思いました。

帰省中は色々お世話になり、ありがとうございました。貰った袋類、役に立っていまーす。

yasumamaさんへ
K.N
v-390今年も原爆投下の日がやってきました。32万人の方が亡くなられました。今なお,原爆後遺症で苦しんでおられる方もいます。それぞれの人たちの命や暮らしを一瞬のうちに奪ったのですね。私は,戦後生まれですが,親たちから,当時のことを色々聞かされて大きくなりました。就職しても,戦争体験の聞き語りや集会などに参加しました。『原子爆弾』の非人間性は,その代だけでは終わらないことです。放射能の影響が無くなるまでには,気の遠くなるような年月を要します。近年,小さな国でも,核兵器を持っている現状があります。究極は,人類の破滅につながります。原爆も原発も減らしていくグローバルな取り組みが急務です。人類の平和的共存を願って・・・。v-354

sa-saさんへ
K.N
v-278v-356猛暑の中,墓参の帰省,大変でしたね。ご先祖様もきっと喜んでいることでしょう。「千の風になって・・・,お墓にはいませんから・・・」という歌もありますが,やはり伝わっていると思います。みんながお墓の掃除をしたので,お盆の気持ちよく迎えられます。原爆資料館,リニューアルされて良くなっていましたか。こちらでは,何度も紹介していました。みんなの心に滲みるような展示を工夫されたそうです。父は,関連の所に勤めていたので,原爆被害の写真集がありました。小さい時から,いつも見て,周りの人の話などを聞いて育ちました。仕事についても,平和登校日などに,戦争体験などの教材を生徒とともに作り,戦争の非人道性と平和の尊さを学習していました。でも,20年位?前から,無くなってしまいました。暑い中,平和の取り組みは大変でしたが,良い体験だったと思います。e-332今こそ「平和・人権」などの取り組みを若い人たちに伝えていく事が必要だと思います。v-282 

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